みなさんは「文化財」の建物を訪れたり、中に入ったりしたことはありますか?
先日、九州大学にて開催された日本建築学会学術大会にて、冷泉荘の国登録有形文化財の登録経緯について梗概にまとめ、発表してきました。この経験から、わたしの文化財に対する印象ががらっと変わったので報告がてらそのお話を。

冷泉荘は戦後の民間RC造集合住宅として初の登録。なぜ民間のいわゆる一般的な賃貸住宅である冷泉荘を登録文化財にしようと思い至ったのか。今回の学会では、その契機や心の変化を分析した内容を発表しました。

契機は大きく3つ。
①スクラップアンドビルドへの問題意識
②第三者からの評価
③文化財経営という発想
①の解決策を探るために冷泉荘の再生にチャレンジし、②があったことで冷泉荘がもつ社会性・公共性に気づき、他の文化財に実際に接することで③にたどり着きました。①から数えると24年、②から数えても12年もの年月がかかっています。

それは、「文化財は特別な建物で、一般のわたしたちには関係がない」という認識があったことが大きいです。ですが、文化財登録に向けて動き出した2022年から、今回の発表までの一連の調査・分析の中で気づいたことは、「普通だと思っていた建物も、成り立ちや時代背景を紐解くことで見え方が変わる」ということです。
文化財を定める「文化財保護法」の中では、「原則として建設後50年を経過」しているものが対象とされています。よく考えると、そもそも50年残っている建物が現代では少数で、残っているということは誰かが意思をもって守り続けてきたということ。すると、古い建物は時代の記録そのもので、その積み重ねこそが文化なのではないか。だからこそ、「文化財」として次の世代へ残す取り組みがあるのではないか。
他の方の学会発表で「固定化された評価を、もう一度原点に立ち返って再評価する」といった趣旨の内容がありました。偶然にも今回の冷泉荘調査での私の気づきと重なったのです。
まずは「立地」

冷泉荘は中洲川端商店街の裏、博多山笠の総本山・櫛田神社の近くに建っています。以前は「いい立地だなあ」くらいにしか捉えていませんでしたが、文化財登録に伴う調査で、金融公庫の融資を受けていること、戦後復興で都市の不燃化を目指して設定された防火帯にあることが判明。そういった時代の政策の中に位置づけられるのかと、新たな発見でした。冷泉荘にはまだまだ知られていない情報が眠っている。「こんな背景があったなんて!」という驚きと可能性が詰まっているかもしれない。
次に「設計者」「施主」

文化財登録の資料として、設計者と施主について調査をしました。これまでは考えたことがなかったですが、どんな建物にも必ず「設計者」と「施主」が存在します。彼らがなぜ、どのような想いで冷泉荘を建てたのか。残された資料や親族の方からのお話を聞いて、また一段と冷泉荘に対する理解が深まりました。
そして「文化財」

梗概を書く中で、文化財登録でお世話になった福岡市の担当の方に、福岡市の文化財の歩み・現状などのお話を聞かせていただきました。その中で冷泉荘のことろ「新しいジャンルの文化財」と表現してもらいました。RC造の民間賃貸住宅というわたしたちになじみ深い建物の文化財、活用され進化を続ける存在。そういうものが、一般の方々に、より文化財を身近に感じてもらえるひとつの入口になるのではとおっしゃっていただきました。
文化財ただ過去が保存されたものではなく、問いを投げかけることで過去と現在がつながり、新たな気づきをくれる。実はAIに近かったりして。

半世紀後、今日を形づくるこの風景のどれかが、次の世代にとっての文化財になる――そう想像すると、日常の見え方も少し変わってきます。
